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Le sacrifice

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“犠牲”

イスラムの世界では、一番の大きな行事として“羊犠牲祭”がある。

たいていの家庭が1匹の生きた羊を買い、ラマダンが明けて2ヶ月と10日後に、お祈りをした後に羊をさばく。
イスラムの教えの中でのこと。
昔、アブラハムが、神様への忠誠を誓うために、自分の息子の命を捧げるよう要求されたそうな。
父親としてそんなことはしたくない、でも神様の言葉には従いたい・・・。
迷いに迷い、ついに自分の息子の命を神様に捧ごうとした時、神様から再度お言葉が。
“おまえの忠誠の心はよく分かった。
 おまえの息子を犠牲にするのではなく、代わりに一頭の羊を犠牲にせよ。
 そして、羊の命を捧げなさい。”

一家の家長が、包丁を持ち、羊をさばく。

イスラムの世界で、一番の行事。
しっかりと目に焼き付けようと、近くで立ち会いました。

日本では昔、牛の解体をする人々を、人間よりも劣った人種として差別していた。
生き物をさばく人が、なぜそのように扱われたのだろう?
羊をさばく様子を見せてもらい、家長の存在の大きさを感じた。
そして、命を生で感じることの意義を感じた。
生きるために必要なこと。
日本人は、自分たちが生きていることの背景を、あまりにも見ていないのではないだろうか。
正直、目をそむけたくなる光景だが、知る必要のあることに感じた。


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生きた羊を、数名の男性が抑え、
“ビスミッラー (いただきます)”
の言葉の後に、家長が首元に包丁を入れる。
さっきまで生きていた羊。
数日間、もしくは何年間も育てていた羊だ。

うめき声をあげたり、バタバタと暴れたり、痛々しい。
首に入れた包丁は、首を全部切り落とすわけではなく、神経系は残す。
そうすることで、心肺機能と循環機能を生かすらしい。
羊自身の能力で、血抜きをすることが、犠牲にした羊の苦しみを短時間にし、更には肉を美味しくするらしい。
人間でいう“頸動脈”と“気管”が切られ、大量の血液と、気管からもれる“ハァーハァー”という、なんとも苦しい音がする。
大きな動きが無くなり、命を引きとったと思われる後も、お腹に手を当てると、温かさと脈を感じる。

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その後、後ろ脚に小さな穴をあけ、そこから息を吹き込み、羊が大きな風船のように膨らむ。
家長が必死に息を吹き込み、私なら酸欠になるのではないか・・・、そんな不安もよぎった。
しっかりと膨らんだ羊は、吊るされ、次の作業に移る。
吊り下がった羊からは、血液と胃の内容物がたれる。

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吊るされた羊は、皮を剥がれる。
ナイフと手で、肉屋に吊るされている状態にされる。
またとない機会に、私も手伝わせてもらう。
温かい羊、初めて触れる結合組織の感覚。
肉と皮の間の白いもの。
何となく細い糸のように感じた結合組織を、ナイフで少しずつ切り離していく。
そんな作業をしながら、何となく芸術作品を作る作業に参加しているような気分になる。

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ほとんどの皮がはがされ、首元にたどり着いたら、首が切り離される。
頭はすぐに、お母さんが火で焼く。
役割分担で、同時進行だ。
家長は、お腹を切り開き、内臓を取り出す。
胃は、内容物を取り出し、洗い流す。
大腸は、息を吹き込み、コロコロしたフンがポロポロと出てくる。
小腸は、消化作業が途中のため、手で内容物を送り出し、きれいにする。

そんな風な作業を終え、串焼き、タジン、クスクスなどの料理で、家族やお客さんを招いてごちそうを食べる。

それが“羊犠牲祭”。

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街中のいたる所に、羊の血が残っています。
しかし、家を訪問し合い、食事をする。
肉を分け合い、語り合う。

そんな習慣の中、お客さんとして、沢山のお家にごちそうになりました。
苦しくなるまで食べ、さらに食べろと言われる。
限界を超え、少し胃が悲鳴をあげましたが、モロッコの文化を感じられた、貴重な経験でした。

私たちが生きるために“犠牲”になる命。
自分が、それらの“犠牲”を最大限生かし、“犠牲にしない”よう生かさなければ。

by coffeeshopdabada | 2010-11-30 11:07 | モロッコ・イスラム